御朱印
2026-01-12
はじめに
「御朱印ってスタンプラリーじゃないですか」
この発言をすると、一定の確率で怒られる。「神仏との結縁の証」「参拝の厳粛な記録」であって、断じてスタンプラリーではない——と。
本稿では、この「否定」がいかに脆弱な論理に立脚しているかを検証し、むしろ「スタンプラリーである」と認めることこそが、御朱印文化の健全な受容であると論じたい。
歴史的に見ても「形骸化」の連続だった
御朱印の起源は平安時代に遡る。当時の参拝者は、自ら筆写した経文(写経)を寺院に奉納し、その受領証として「納経印」を受け取った1。命がけの巡礼と、多大な労力をかけた写経。その対価としての印章。ここには確かに「崇高な宗教行為」としての実質があった。
しかし江戸時代、参拝者が爆発的に増加すると、一人ひとりが写経を用意し、僧侶がそれを受け取って祈祷するプロセスは物理的に困難となった。その結果、「写経を納めなくとも、参拝して読経すれば(あるいは金銭を納めれば)、納経印を授与する」という簡略化が進んだ2。
つまり、「スタンプラリー化」は現代の堕落ではない。数百年前から進行していたのだ。
さらに言えば、江戸時代の納経帳は関所を通過するための「通行手形」としても機能していた3。庶民にとっての巡礼は、信仰であると同時に、移動の自由を得るための手段であり、旅行という娯楽でもあった。厳粛さと遊興は、最初から不可分に混ざり合っていたのである。
「スタンプラリー否定論」の論理的脆弱性
「その道の人」が御朱印のスタンプラリー化を否定するとき、その論拠は主に三つに集約される。
- 「スタンプラリーは遊びだが、御朱印は信仰である」
- 「スタンプラリーは参拝しなくても良いが、御朱印は参拝が必須である」
- 「御朱印帳は神仏の分身であり、ノートとは違う」
しかし、これらは「あるべき姿(当為)」を語っているに過ぎず、「実態(存在)」を否定できていない。
現実を見よう。多くの参拝者が、賽銭箱の前を素通りし、御朱印だけを受け取って帰る。限定御朱印の発売日には長蛇の列ができ、メルカリでは「令和元年5月1日」の日付が入った明治神宮の御朱印が数万円で取引される4。
「スタンプラリー感覚で来るな」という怒りの声は、逆説的に、スタンプラリー化が進行している事実を証明してしまっている。
構造的同一性という不都合な真実
御朱印巡りとスタンプラリーの行動プロセスを比較してみる。
| 段階 | 御朱印巡り | スタンプラリー |
|---|---|---|
| 準備 | 御朱印帳を購入 | 台紙を入手 |
| 移動 | 指定された寺社へ移動 | 指定されたスポットへ移動 |
| 到達確認 | 参拝、写真撮影 | チェックイン、GPS認証 |
| 取得 | 初穂料を納め御朱印を受領 | スタンプを押印 |
| 収集 | 帳面に蓄積される | 台紙に蓄積される |
| 完了 | 満願(全札所制覇) | コンプリート |
行動のアルゴリズムにおいて、両者に本質的な差異は見られない。特に「三十三所」「八十八ヶ所」のように番号が振られ、順路が設定されている場合、それは設計されたスタンプラリーそのものである5。
「御〇印」ユニバースの出現
さらに興味深いのは、御朱印というフォーマットが宗教の枠を超えて拡散している現象だ。
- 御城印:城郭の登城記念証
- 御翔印:JALが空港で販売する「空の御朱印」
- 御船印:フェリーや観光船の乗船記念
- 鉄印:地方鉄道の駅で販売
これらは明確に「観光スタンプラリーのアップデート版」である6。消費者は、神社の御朱印も空港の御翔印も、同じ「旅のコレクション」として並列に受容している。
この現状において、本家の御朱印だけを「スタンプラリーではない」と区別することは、機能的にも現象的にも不可能に近い。
意味が形骸化しているものに、無理やり崇高さを付与すべきではない
ここまでの議論を踏まえて、私の立場を明確にしておきたい。
御朱印は「スタンプラリーである」。そして、それでいいと思っている。
意味が形骸化しているものに対して、無理やり崇高な意味合いを付与する必要はない。結局、個人が各々の目的で収集する/しないを決めればよく、他人の参拝を邪魔したり、誰かに何かを強制すること以外は自由にやってよいのではないか。
むしろ、「意味」なんてない方が良いとすら思う。
神道と「非言語」の受容
もう少し丁寧に言うと、言語化できる理屈なんて必要ないのではないか、ということだ。
そもそも神道とは何か。私の理解では、それは「言語化できないもの」や「自分の力が及ばないもの」を、非言語のまま受け入れるという態度である。
山に神を見る。川に神を見る。古木に注連縄を張る。なぜそうするのか。「なんとなく、そこに何かがある気がするから」。それ以上の言語化を必要としない。教義も経典も、本質的には要らない7。
この「言語化しない」という態度と、「御朱印とは神仏との結縁の証であり、参拝の厳粛な記録であり……」と定義を固めようとする態度は、実は相性が悪いのではないか。
「ふんわり」こそ健全である
何周か回って、こう思うようになった。
「なんかかっこいいから」
「なんかおしゃれだから」
「なんかかわいいから」
——御朱印を集める理由として、こういうふんわりした動機が一番健全な気がする。
「神仏との縁を結ぶため」と言語化した瞬間、その定義に縛られる。「スタンプラリーではない」と否定した瞬間、否定しなければならない現実が生まれる。
でも「なんかいいから」には、縛りがない。否定すべき対象もない。ただ、その場で感じた「なんかいい」という感覚だけがある。
それは、山を見て「なんか神聖だな」と感じる素朴な感覚と、本質的に同じものではないだろうか。
結論:定義しない自由
御朱印はスタンプラリーである。歴史的にも、構造的にも、経済的にも。
そして、それを認めた上で、各自が好きなように楽しめばいい。「信仰の証」として厳粛に扱いたい人はそうすればいいし、「旅の記念」としてカジュアルに集めたい人もそうすればいい。どちらも正しいし、どちらも間違っていない。
大事なのは、他人の楽しみ方を否定しないことだけだ。
「御朱印とは何か」を定義しようとする行為自体が、すでに野暮なのかもしれない。言語化できないものを、言語化しないまま受け入れる——その態度こそが、実は神道的なのではないかと思う。
ただ、
ここまで「意味なんてなくていい」と書いてきたが、一つだけ補足しておきたい。
御朱印という「儀式」があることで、人は神社や寺院に足を運ぶ。足を運ぶことで、その場の空気に触れる。手を合わせる。境内を歩く。
理由が「なんかかわいいから」であっても、その結果として神仏の前に立つ時間が生まれる。その時間に、何かを感じるかもしれないし、感じないかもしれない。
でも、その「かもしれない」の可能性が開かれていること自体に、意味があるような気もする。
言語化できないけれど。
参考文献
御朱印の起源 - 古今御朱印覚え書き. https://blog.goshuin.net/origin/
御朱印の歴史 - 古今御朱印研究所. https://goshuin.net/research/history/
新城常三『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』塙書房、1982年。第5回角川源義賞受賞。社寺参詣史料の分類として「道中記・日記・往来手形等による個々の具体的参詣事例」「藩法・村法等の法規定」「識者の評論・随筆または風俗帳等の記録」を提示。
「三社祭」の御朱印中止、参拝客の暴言やネット転売を問題視 - BuzzFeed News, 2019年5月17日. https://www.buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/gosyuin-crisis
御朱印の歴史(5)スタンプブームと御朱印 - 古今御朱印研究所. https://goshuin.net/history-05/
御朱印について - 神社本庁公式サイト. https://www.jinjahoncho.or.jp/omairi/goshuin/
神道 - Wikipedia. 「神道には釈迦やイエス・キリストのようなカリスマ的創唱者が存在しなかった。政権による土着の民俗信仰との支配的な祭政一致が行われた神道が教義を言語で統一的に定着させなかったのは、古代より『神ながら 言挙げせぬ国』だったからであるとも言われている」 https://ja.wikipedia.org/wiki/神道
本居宣長 - Wikipedia. 「日本には言挙げをしない真の道があった」と強調し、儒教や仏教を「国が乱れて治り難いのを強ちに統治するために支配者によって作為された道である」と批判。 https://ja.wikipedia.org/wiki/本居宣長
田口佳史「神道とは何か――本居宣長が『古事記伝』で語っていること」テンミニッツTV. 「神道には教祖・教典・他宗教の排撃という宗教の3条件がない」「『これが神です』と示さないで、神を感じてくれというわけ」 https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=3672
限定御朱印の授与「しばらく止めます」 メルカリ転売で苦渋の決断 - Jタウンネット, 2020年7月1日. https://j-town.net/2020/06/29307081.html
原淳一郎『近世寺社参詣の研究』思文閣出版、2007年。「もはや二分法は無意味で、どのような点が信仰的なもので、どのような点で物見遊山色が強いかを見極めるかが今後の方向性」と主張。